寺町の歴史

  • HOME
  • 寺町の歴史

寺町通りの歴史

平安京の頃、寺町通りは都の最東の通りで、「東京極大路」と呼ばれる道幅32メートルの大路だったとか。応仁の乱で荒廃したこの通りを再興したのは豊臣秀吉、天正18年(一五九〇)のことです。
秀吉はここに寺院を集め、通りの名も「寺町通り」と改め、一大寺院街を造営しました。
宗派を超えておよそ80ヶ寺とその塔頭が整然と立ち並ぶ様はまさに寺の町。

江戸時代には書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人や、紙や三味線などの職人たちがこの道沿いに集まり住み、現代の商店街の原形ができました。
東海道五十三次の最終地点も「寺町三条」であったといいますから、京の寺町は全国にその名を馳せていたのです。
明治、大正、昭和を経て、寺町通りはいつも、古くて新しい魅力的な京の通りです。

平安時代〜戦国時代

寺町通りの原型は、平安京の東端を南北に走る東京極大路にあたります。幅員が32メートルの大道で、この大路の北域は、平安京屈指の高級住宅街であったそうです。
しかし、15世紀後半の応仁・文明の大乱によって整然とした街路のほとんどが失われてしまいました。

安土桃山・江戸時代

豊臣秀吉肖像画

現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。
豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路の在ったあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付きました。
浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。
門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。
さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。
現在、寺町に残る老舗の多くは、このころに栄えたお店が代々引き継がれてきた名店なのです。

明治時代〜現代

明治に入ると、文明開化のシンボルとも言うハイカラなお店が出始めます。 西洋菓子屋・写真館が出現したのも寺町通りです。
明治28年以降には、今出川から寺町を通って二条通りまで市街電車が走っていたというのは、今では考えられない光景です。

平成の年号が制定された頃、寺町商店街のリノベーションとして大胆なアーケード更新が計画され今に至っています。
豊臣秀吉の京都大改造計画を行ってから400年にあたる年でした。

寺町通り沿いの町名の由来

寺院街として秀吉によって造営された寺町通りは、通り沿いの町名にも寺院にゆかりの深い名が残っています。「式部町」は和泉式部の墓と伝えられる石塔のある誠心院が「式部寺」とも呼ばれていたところからつけられた町名です。
その南隣の「円福寺前町」は読んで字のごとく、円福寺の前の町内だから。
さらに南に隣接する「東大文字町」は江戸時代には「大文字町」と呼ばれていたということですが、同じ学区内に同じ町名があり、明治の後半より寺町通りの方は「東」を冠して使うようになったのです。
昔は、都の東の端にあたるここ寺町通りから大文字がはっきりと見えたからかもしれません。

火除天満宮写真

火除天満宮

四条寺町を下った、家電街の中にある小さな神社。九州の大宰府から運ばれた菅原道真の像を祀っている。もとは信長父子の菩提を弔うために創建された大雲院(烏丸二条)にあったが、秀吉の京都再編に伴い大雲院とともにこの地に移った。維新前夜の元治元年(1864)の「蛤御門の変」の戦火にもこの付近一体は類焼を免れたことから、学問成就とともに火除の神として信仰を集めている。現在、大雲院は東山に移され石碑だけが残っている。

矢田寺

平安遷都直後に、大和国(奈良県)矢田寺の別院として満慶(満米)上人と小野篁により創建された。
本尊の立像地蔵菩薩は火焔に中に立つ珍しいお姿。満慶上人が小野篁の橋渡しで冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵菩薩の姿を彫らせたものと伝えられ、地獄で亡者を救うことから代受苦地蔵として広く信仰を集めている。
またこの寺の梵鐘は六道珍皇寺の「迎え鐘」に対して「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を安らかに冥土に送ると言われている。

矢田寺写真

本能寺写真

本能寺

天正10年(1582)に織田信長が明智光秀の謀反にあって自刃したことで有名なお寺です。
もともとの本能寺は、油小路蛸薬師のありました。事件当時に建物は消失してしまい、5年後に秀吉により信長の供養のため、いまの地に移転再建されました。
境内には信長とその側近の供養塔や、文人画の大家、浦上玉堂父子のお墓などが祀られています。

このページのトップへ